例えば絵描きは絵を描く事で、自分の感動や内面
を
表現するんだけれども、 これが全部言葉で伝わっちゃったら、
絵を描く必要はないんですよね。
それと同じことで、「詩」が全部ビジュアルイメージ
になるんだったら、 それはただの説明で、
意味を伝達してるだけだと思えます。
何年か前から、しょーもない言葉に
へたなイラストをつけて 路上で売ってたりしますが、
あんなもの詩じゃあありません。
「気持ちわかるわかる」なんて言っちゃあいけません。
(確かに一部はすごい人もいるので、まだ怒らないように)
こういう時の「気持ちがわかる」というのは、
自分の中の 一般化された部分で、
「別れのシーンで泣く」とか
「こけたシーンで笑う」とかと同じように、
(最近では猫が死んで泣くなんてのもあります)
よくよく自分の心の中を探ってみると、「心」からではなく、
「その記号に対する反応」からきていると思います。
いつもやってることだから安心感があって、
それに加えて、説明を補助してくれる「いらすと」の
おかげもあり ビジュアルイメージも出来て、
「わかる」わけです。
でも、芸術家の表現はそんな一般化されたところに
留まるもんじゃなくて、自分の中でどんどん深くなる。
何だかわかんない感動や衝動があって、
自分でもわかんないんだから説明しようがない。
でも自分の外に出したくて出したくて、
仕方ないから 「音」や「リズム」や「感覚的刺激」を駆使して
その「わかんないもの」をとらえようとする。
そんなわけで僕らは、結果的にその感動が持つ全体像の
「書ける範囲だけ」の「いとぐち」しかもらえない。
だから意味だけを追っても何もわからない。
まあ書いたほうにすれば、
「俺がわかんないのに、 わかってたまるか」
なんてところもあるでしょう。
でもこの「わかんないもの」が心に響いてくる瞬間って、
確かにありますよね。
それでその時は確かに嬉しい。
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