さてコラムです。
実はこれはお蔵入りの予定でした。
あまりに今回の木寺氏のインタビューと
かぶっているからです。
でもスタッフからの意見で、 これはこれで
載せた方がいいと 言われたので、 掲載を決定しました。
確かに、インタビューと併せて読むと 深まって、
悪くない気もしますよね。

詩というもの。
別になんとなく、
井上陽水のドキュメンタリーを眺めていた時のこと。
ふと気づいたんだけど、陽水の曲って、ほとんどビジュアルに
置き換わらないと思いません?
よくよく考えてみれば、常識として、言葉は意思の
「伝達手段」のはずなのに、 その言葉がイメージに
置き換わらないってのは不思議ですよね。
「なんでだろ?何がかっこいいんだろ?」と
考えてみたんですが、わかりません。
で、わかんない代わりに宮沢賢治なんかの詩が
頭に回ってきて、 もっとわかんなくなってしまいました。
「要するに芸術なんだ」ということで解決することに
したかったのですが、 悔しいのでもう少し考えてみます。
言葉の存在意義というのは、どうもその意味を伝える
だけではないようで、 「音」や「リズム」、そこに潜む
「感覚的刺激」というのも 実はかなり大切なようです。
試しに「ごげがちゃんだー」とか「きろかんぺそ」とか
意味不明なことを言ってみると、
これが口にも耳にもかなり気持ちいい
(ぼくだけですかね?)
「意味やリズムや音を積み重ね、 全体のイメージを表現していく」
どうもこれが「詩」の本質のようで、
「死んだかえる」や 「狐の皮衣」を
断片で思い浮かべてもだめみたいです。
こう考えてみると、やはり「詩」は、芸術のようです。