スペイン語、言葉が解らないというのは、再表現
することに対してネックにはならないんですか?


まあ他の日本人もわかんないし。
でも音楽ってそういうものだと思いますよ。
詞の意味というものが、音楽にとって本当に
必要なのかと思うし、僕自身はリズムとメロディーが
共通言語であれば、それでいいと思ってますからね。
それは写真も同じことで、僕は写真を表現として
発信してるから他の「ことば」は
必要ないんですよ。
僕は最近の訳のわかんないイラストレーターとか、
ほんと大嫌いで、あの「いらすと」の横に
人間がどーのこーのなんていう言葉をつけて
したり顔してるのなんて、カッコ悪さの極致だと
思いますよね。それでまたそんなのを結婚式で
読んでるおやじなんかがいるんですよね。
もうそんな時は撮影してても耳を塞ぎたくなる。
読んで、「そうねえ…」て共感を得てもらうために
やっている表現って、何のためにあるんだろうって
思いますよね。
例えば、中也とか、朔太郎なんかを読むと、
「ゆあーん」「やゆよーん」とか、聞いて意味を
取り出しても何にもわかんないんですよね。
でもわかる。響いてくる。
それが「表現」だと思うんですよ。
音楽でいくと、フリージャズなんかは3人いても
3人が一番きもちいいかたちで奏でてるだけで、
音楽の様式からいけばズタズタだったりする。
でも聴いてるほうもその「音」の中から自分の
音をひろって感じてるんですよね。
そうやって、感じる人の中で完成するのが
表現だと思いますよ。



なるほど。でも商業的な観点からみると
それでは成立しないのでは?


そこなんですよね。
でもそこは、「誰の表現か?」というのがあって、
例えば婚礼なら「花嫁さん」なわけだから、
花嫁さんが最も美しく伝わるように花嫁さんの
心に切替えれるんですよ。
もちろん「自分の表現」の時は「自分の心」に
なってめちゃくちゃになるんですけど。
とにかく写真を撮る時は相手を吸収して、
自分の中で昇華させようとはしますよね。
本当のことをいうと、婚礼の写真なんかは
すごく難しいんですよね。
「そのひと」を撮るわけだから、その美しい姿を
見つけ出さないといけない。
もちろん皆さんその人の持つ美しい姿がある
訳だから、それを間違いなく見つけ出して、
表現することには必死になりますね。


そういった責任感からなんでしょうけれども、
Fuで撮影したら、木寺さんに責任持って、
撮影、修正からアルバム作成まで
してもらえますよね。そういった部分では
分業化はおこなっていかないんですか


うん、完全分業はやらない方がいいと思いますよ。 ただ、Fuの場合は僕があんまり「先生」じゃない というのもあるんですけど、スタッフのほうから 「こうしたい」「これを入れたい」という意見が 出て、よりいいものをみんなでつくっていこうとする 姿勢はあると思いますよ。