先生の型を見ると、単純に「かっこいいな」という
印象を受けるのですが、その「かっこよさ」とは
どういったところにあると思いますか?

本当にそう見てもらえるならば、「清水寿浩」
としてではなく、「居合人」として、本当に
うれしいことだと思います。
顔かたちとか、姿格好ではなくて、
格好つけの所作ではない、武道やスポーツの
真剣に戦う姿、動きが美しいというのは
私は非常に単純なことだと思いますよ。
それは「機能的に優れている」という一言につきますね。
機能的に優れているというのはすなわち
無駄がないということでして、「敵よりも速く」
という中で、いかに無駄を省いて簡潔に
機能を果たすかということが美しさに繋がるんだと
思いますね。
それは列車や飛行機や車といったものの様に、
機能を追求すればするほどかっこよくなるというのと
理屈は同じですね。
もっとも美しさを求めるのが居合ではないのですが、
結果として美しいというのは大切な要素ですね。

ところで、これが一番の疑問点なんですが、
居合は「型」を習って稽古をしますよね。
「型」というのは一般的には「型にはまる」などと
いい言われ方はしませんが、しかし上段者になると
その「型」のなかに「個性」があるように感じます。
この対極にあると思われる「型」と「個性」は、
同時に表現できるものなのでしょうか?

もちろん、「型」というものがなければ
稽古はできませんし、あらゆる場合を想定して
生まれたものが「型」ですから。
そうして「個性」というものは、その技の究極への
追求の仕方に「個性」があるということなんです。
「型にはまる」というのは、ある意味大切なことです。
個性というものは、とことんまねをすれば
出てくるもので、「学ぶ」は「真似ぶ」だとも
いわれますね。
民謡の「江差追分」は、手本にある
息継ぎの間まで決められた通りに歌わなければ
ならないといわれてますが、決して皆同じに
聞こえるものではありません。
「型をきちんとやることで出る個性もある」
といわれる所以ですね。
しかしながら、学ぶ上では、「個性」とは別に、
「くせ」というものがありますね。
「くせ」というものは、いいことには使われないもので、
実はその「個性」とは対極にある、
無駄とか、自我とかいったものなんです。
「個性」とは、行く道筋が違うだけで目的は
同じなんですね。
たとえば野球選手でも、ホームランの打ち方、
フォームには各々努力と研究があって、
目的は同じでも道筋は違いますよね。
ですから自分のいいものを伸ばし
目的を達成するというのがすなわち
「個性がある」ということなのだと思いますよ。
そしてその努力の出来る人が、「伸びる人」
なんですよ。